【分科会4】「なぜこんなに政治について話しにくいのかなぁ?」

小沢健二の文章を一緒に読んで、話しあいませんか?

6月4日に、武蔵境で対話の会があります。そこで小さな集まりの進行役を務めるのですが、小沢健二の「金曜の東京」を読んで話し合う、という進め方にしたいと思います。

■「金曜の東京」(小沢健二)

対話の会の趣旨は、共謀罪をきっかけとして、いまの社会の中で対話するってどういうことなのか、今後どうなっていくのかを話し合おうというもので、いくつかのグループが同時進行で進めていきます。私はそうしたグループの一つの司会を担当します。

私がテーマとして取り上げたいのは、「どうして政治について話し合ったり、政治的意見を述べたりすることが、こんなにも避けられてしまうのだろう?」という疑問です。

私の勤め先の大学ですら話しづらい。

まして一般的な職場ではなおさらでしょう。

飲み会などでも、「バカなやつ」と衆目が一致している政治家の悪口は言えますが、原子力発電の是非や共謀罪について意見を言うのは難しい。

場が白けてしまうからですが、でもなぜ白けるんでしょう?

それについて話し合う手がかりの一つとして、「金曜の東京」を使いたいのです。

小沢健二の「金曜の東京」は2012年7月に発表された文章ですが、今読むと、当時とはまた違ったことを、いろいろと考えさせてくれます。

たとえば私は一昨年ぐらいまでデモに参加していましたが、この頃はあまり行かなくなりました。

わずか5年前の文章ですが、これを読むとある種の懐かしさを感じつつ、「なぜ行かなくなったんだろう?」と思ってしまいます。

こういう「なぜ?」の問いを、この文章は突きつけてきます。

5年前に比べて、政治から離れつつあるのは、たぶん私だけではないでしょう。

「金曜の東京」で小沢は、大都市でデモが起こるのは普通で、東京も「世界標準」に戻ってきているのかなと述べていますが、2017年現在、また世界標準から離れつつあるように思えます。

もちろん今でもデモは行われていますが、2012年と比べると、また取り上げられている話題の大きさ(共謀罪)に比べると、その規模の小ささは否めないように思えます。

この社会全体の流れについての「なぜ?」の問いも、この文章を読むと否応がなく浮かび上がってきます。

この「なぜ?」の問いに答えるのは容易ではありません。

しかしその答えが何であれ、共謀罪が成立してしまうと、政治の話題を回避する傾向は強まるでしょう。

普通の人はそもそも政治について話し合ったりしない、という空気が強まると思います。

「金曜の東京」には、他にも参考になる話題が出てきます。

「変な目くばせ」とか「熱を出させてしまう対処法」とか「対案を出せ!」だとか。

こういった話題を手がかりにして、「政治についての話しづらさ」について、ぽろぽろと言葉をこぼしあえたらいいと思います。

いろいろと述べましたが、20数年来のショッカーとして仲間と話したいという動機があることもつけ加えておきます。

これが「金曜の東京」を題材にする最大の理由かもしれません。

ショッカーらしく、輪になって「共謀」してみませんか?「フジロックどうするよ?!」とか。

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ファシリテーター
高村夏輝(松蔭大学)

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